まちかどの
ノコギリ屋根
桐生森芳工場

 桐生織物の発展過程を辿ると、技術革新と新商品開発の積み重ねであったことが分かる。転換期には産地や時代を先導したイノベータ―達の存在があった。
森山芳平はその先覚者の中でも代表的な一人である。明治の初め、化学染色法を導入、空引き機からジャカード織機への転換、輸出織物を先駆け、全国から集まった門人に織物技術教育を施すなど、産地のみならず全国的な視野を持ち、行動した機業家であった。

芳平の四男弥六は大正4年に二代目芳平を襲名、問屋との直接取り引きなどで流通の革新に挑んだほか、権力に近づかず反骨の志を掲げ、桐生織物に対する深い洞察と愛情を生涯持ち続け、多くの機業家たちから慕われた。

東二丁目の森山芳平工場は昭和初年に彼により建てられたものである。 後継者を作らなかった芳平は、昭和45年に織物業を廃業、同61年に95歳で逝去するまで桐生織物の研究や資料の整理に取り組んだという。

東二丁目、日限地蔵の縁日で知られる観音院にほど近い交差点の脇に建つ三連のノコギリ屋根工場は、主を失って30年余りの年月を重ね、傷みが激しくなり老朽化していった。
平成4年に新たな出会いが訪れた。美術を始めとする様々な創作活動を行う作家や学生が桐生市を訪れ、「桐生再演〜街における試み」と題した美術展を開催した。会場となったのは、廃工場であったり、神社の境内、民家の庭、河川敷など。桐生の“場”の魅力を作品の一部とする彼らのインスタレーションが、独自の世界を創り出した。以来10年
が経過したが、一貫して彼らの活動の拠点となったのが、この森山芳平工場だった。

 
平成15年、「解体」を前提とした工事が行われたが、森山家の人々の思いとボランティアで作業に当たった「桐生再演」の作家、学生たちの熱意、最終的には建築家からの「修復可能」の言葉で、工事は一気に「保存」へと方向を変えた。


昨年七月から工事が始まり、各分野の匠の手と作家との合同制作のような趣で、年末までには大方が終了した。出来るだけ元の建物を生かした修復を基本にノコギリ屋根の特徴である北向きの天窓を生かしながら、さらに光を取り入れるための南面に大きな開口部を設けた。三連のうち一連は床板、壁を貼り、居室部分とした。

工事に携わった作家、学生たちは延べ600人を超えた。3月に彼らは「桐生再演9、森芳プロジェクト2003〜2004」として、工事過程の記録写真や映像などの資料展示を行い、地域にその全貌を公開した。
建物を所有する森山喜恵子さん(東京在住)は、「作品発表の場として活用するなど、桐生のお役に立ちたい」と語る。
見事に甦ったノコギリ屋根「桐生森芳工場」。先覚者とその家族、工場を巡る作家や学生、工事関係者など多くの人たちの思いが吹き込まれている。

▽桐生森芳工場(桐生市東A―14−27 рS7−3560)

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