まちかどの
ノコギリ屋根

須豊株式会社

広沢町は昭和48年に国道50号線が開通してから大きく変容を遂げた地区である。

 園風景が広がっていたこの地区は、かつて産業的には農業を中心にそのかたわら養蚕や機織が行われていたが、明治中期以降、多くの先覚者を輩出している。飯塚春太郎はインド向けタフタ織を考案、藤生佐吉郎は木製織機・ジャガードを開発、彦部駒雄は桐生織物同業組合組合長として卓抜した指導力を発揮、桐生織物の全盛期を現出させている。

 昭和の初めには広沢地区の織物業者は485戸を数え、織物従事者2043人、生産額300万円余りの機業地として発展した。桐生市に合併したのは、昭和12年のことである。このような産業風土を背景にノコギリ屋根の工場は30棟を超える数が残っている。須豊梶i須永亮二社長)のノコギリ屋根もその中のひとつである。広沢地区には帯地機屋が多かったといわれるが、須豊は戦前から輸出織物を生産していた。三連と一連のノコギリ屋根工場は昭和8年に建設された。戦後は、川内町や大間々町、足利市の松田町などに織機300台の外注を持ち、アメリカやヨーロッパ、中近東向けのラメ入り織物を生産していたという。

 ノコギリ屋根工場には現在でも16台の織機が残されているが、機音が響くことはない。今年の夏から須永氏は傷みの激しい工場を自らの手で修復し、その外観は見違えるほどになった。「歴史のある建物は、軽軽しく修理できない。木が持つ温かさを保ち、周囲との景観にも配慮して作業しなくてはならない」。須豊の敷地内には、用水が流れ、重厚な造りの母屋や手入れの行き届いた庭と併せて、この地区の機屋の特徴を今に伝えている。
▽須豊梶i桐生市広沢町5―1295)
 
(残念ながら2009年夏に解体されました)
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