まちかどの
ノコギリ屋根

有限会社岩耕

 
 新宿通りはかつて両側に水路が流れ、撚糸を行う水車が連なる職人のまちだった。江戸後期から昭和初期まで150年にわたり、水車のある風景が見られた。その周辺にはノコギリ屋根の工場も多く建てられた。
 
 有限会社岩耕の所有するの六連と五連の工場は、その中でも、ひときわ目を引くノコギリ屋根である。
 
 岩耕織物は、岩下和勇さんの先々代にあたる岩下耕一郎氏が創業した。大正13年に三連のノコギリ屋根工場を二棟、建設した。その後、昭和3年に二連、同21年に三連を建て増し、現在の姿になった。特に六連の規模の工場は桐生に三棟しかないうちの一つである。
 同社は市内でも屈指の帯地機屋であり、「近くの機屋が集まり、“岩耕組”というものを組織し、当時としては珍しい共同受注、共同生産システムをとっていました」と岩下さんは語る。
 
戦時中は、織機の供出により操業を止めるが、女性の労働力を背景に海軍被服廠の監督のもと、軍服や下着などの縫製工場に転換した。昭和19年には群馬縫製株式会社が設立。終戦後、生産を管理していた軍人も桐生に残り、内地向けの縫製業の先駆けとなった。

 その後、販路を海外に拡大。「アメリカ向けブラウスを生産したところ、堅牢度でクレームがつき、価格を下げ“ワンダラー・ブラウス”として輸出したところ、これが大ヒットになりました」と岩下さん。

 これを契機にして同社は輸出縫製工場となり、昭和28年には潟Oンポーと名称変更し、桐生の縫製業発展の礎を築いた。
 縫製業という当時の桐生にとっての新しい産業の芽生えは、桐生の豊かな労働力と織物で培われたきめ細かな技術などに支えられていたが、伝統的な帯地を生産したノコギリ屋根工場がその苗床になったという点も興味深い。


 現在、五連のノコギリ屋根はプリーツ加工の工場として現役で使われているが、六連のノコギリ屋根は空き工場となっている。
 
 大正13年に作られた三連はスレート瓦に排気用の煙突が立つ珍しいデザイン、戦後の新しい三連は赤いトタン屋根と北向きの窓が白い壁と美しい調和を見せている。


 建てられてから80年を経て、ますます存在感を増すノコギリ屋根。「その機能を効果的に使っていただける方に貸したいのですが」と岩下さんは希望している。
(岩耕のノコギリ屋根工場には現在(2010繊維関連企業が複数入居し、ユニークなものづくりを展開しています)
 ▽糾竝k(桐生市新宿2―10―3)

RETURN